戦後70年談話有識者懇談会第2回議事録要旨

表記懇談会の議事録が首相官邸HPにありますが、

北岡伸一座長代理(国際大学学長)が、植民地支配や侵略の実態について、
かなり具体的に指摘されているので、参考までに要旨をまとめましたので ご覧ください。

 
内     容
意見に対する北岡座長代理等によるまとめ
北岡座長代理の発表 ① 20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか、教訓は何か、について話したい。
② その前に19世紀は、西洋の技術革新のため植民地化が全世界に広がった弱肉強食が広がった世紀。
③ 中国は世界最大のパワーを持っていたが、アヘン戦争という極めて非道な・不義の戦争に負けた。
④ 19世紀末になると、それまで半植民地主義だった米国が米西戦争勝利の結果、フィリピンを領有した。
⑤ さらにドイツは、宣教師2名の暗殺をきっかけに膠州湾を租借、さらに人口1億という山東省全域を勢力下に
⑥ この間、日本は植民地化をまぬがれながら、近代化を進めた。
⑦ 清国と戦い台湾を領有し、日本も植民地を持つ側に立つ。
⑧ 以上が19世紀の主な流れ。
⑩ その後脱植民地化の反動が来る。その導火線となったものが日露戦争の日本側の勝利だ。
⑪ この日本の勝利は、ロシアの圧迫を受けていた国々、フィンランド、ポーランド、トルコなどの国民を熱狂させた。
⑫ その後、ヨーロッパ列強間で衝突が起こり、第1次世界大戦が勃発。
⑬ 
これは、革命的変化を世界にもたらした。ロマノフ、ハプスブルグ、ホーエンツォルレンといった名門王朝がつぶれ、時代が大きく展開。民族自決の動きが顕著。
⑭ 
第1次大戦は、きわめて凄惨な戦争だったため、戦争はもうやめよう、という動きから、各国間で1928年にケロッグ=ブリアン・パクト、いわゆる不戦条約が締結。国策としての戦争を非とする戦争違法化の動きが進んだ。
⑮ 
第1次大戦後の1920年代は、植民地化の動きは止まり、比較的安定期に入ったが、この安定を支えたのはもっぱらリベラル・デモクラシーが将来の方向だという米国の繁栄だった。
⑯ しかし、やがて、崩壊の時を迎える。理由は、反帝国主義運動、脱植民地化運動、ソ連の軍事強国化、大恐慌の勃発など。
⑰ 、トルコ、イタリア、ソ連、ドイツでの全体主義の台頭、アウタルキー(自給自足経済)思想、レーベンスラウム(生存圏)思想から領地拡大へと日本も動く。
⑱ 日本は、世界の大勢を見失った。無謀な戦争でアジアを中心に多くの犠牲者を出してしまった。
日本は、多くの兵士をろくな補給も武器もなしに戦場に送り出し死なせてしまった。国民も空襲にさらされて大変な目に会った。

⑲ 1930年代後半から、植民地統治が苛酷化した。1930年代以降の日本政府、軍の指導者の責任は誠に重大。日本がアジア解放のために戦ったということは、誤りだ。

⑳ なぜ日本はこうした軍事的発展主義の道を辿ったのか?
 
1)戦前の日本は貧しい農業中心の国で、領土拡張への強い欲求があった。日本は、資源が少ないから外に求める。人口増により領土拡張欲求が大きかった
 
2)首相の地位が弱体だった。明治憲法では、総理大臣の指揮権は軍に及ばず、軍は強い独立性を持っていた。したがって、関東軍が暴発したときこれをコントロールできなかった。
 
3)
言論の自由がなかった。1937年の日中戦争勃発後は、非常に厳しい言論統制が及ぶようになった。
 
4)日本軍部は、非常に独善的であった。当時の国際的な制裁のシステムは非常に弱かった。
㉑ 戦後の安定と繁栄の条件は?
 
1)戦後世界では国連憲章2条などで、武力による国際紛争解決を禁止するという規範が確立。戦後の日本は、この規範に最も忠実な国であり、憲法9条第1項は、これを定めたもの。今日、日本が世界中の力による変更に対して、常にノーと言う気持ちは、国民の中に広く根ざしているし、政府の政策をも貫いている。
 
2)自由な貿易システムの発展。アウタルキーなど不要。力で膨張しなくとも資源は買えるし、輸出もできる。と圧倒的多数の人が考えている。
 
3)議院内閣制における総理大臣の権限は、非常に強力。言論の自由は十分に保障されている。
 
4)国際的な制裁システムの強化。

㉒ 以上から、転換して、戦前のような膨張をするのは、こうした基本的な今日の日本の繁栄を支えている条件からして、ありえないと断言できる。
㉓ 今後の日本の課題は何なのか?
 
1)以上のような観点から、自由な国際的な政治経済システムをいかに維持するか、ということだ。
 
2)そのためには、日本は、一国平和主義であってはならない。日本が受益者としてそのシステムから利益を得るだけではなく、より大きな役割を果たすべきだ。
 
3)そのためには、日本自身が弱みを作らない、すなわち防衛力を整備することが重要。日米同盟の整備。
 
4)国際的な安全保障に積極的に参加すること。
 
5)積極的平和主義も評価できるもので、外交の積極的平和主義、世界の紛争の解決、安定のための努力はさらに進めるべきである。
 
奥脇委員の発表

① 20世紀が激動の時代だったことを反映して、国際法にも大きな変化があった。
② つまり、国際法は多少の無理や不合理があっても、概念区分を明確にすることで紛争要因を縮減するというのが国際法の平和戦略だ。
③ 20世紀前半期の最大の課題は、戦争をどう制御するかということにあった。
④ 1899年と1907年に開かれたハーグ平和会議でハーグ陸戦法規と、国家間の紛争を戦争に至る前に解決するための国際紛争平和処理条約が締結され、常設仲裁裁判所が設置された。
⑤ しかし、歴史は理想通りには進まなかった。
⑥ 第1次世界大戦後に創設された国際連盟は、集団的安全保障体制の枠組みを創設し、連盟規約に違反して戦争に訴えた国に対しては、連盟国が一致して制裁を加える体制を作った。
⑦ しかし、戦争への抜け穴もあったため、これをふさぐために、1928年に不戦条約が締結された。『国際紛争の解決のために戦争に訴えないこと』を取決め、『国家政策の手段としての戦争を放棄』した。ただし、自衛のための戦争は含まれないことは、当然の了解だった。
⑧ しかし、「事実上の戦争」は自衛権の名のもとに行われた。
⑨ 第2次世界大戦後、国際連合が創設された。集団安全保障体制に牙を持たせるために、憲章第7章に強制措置を盛り込んだ。しかし、拒否権制度により、うまく機能しなかった。
⑩ そのため、予定外の国連平和維持活動(PKO)などの憲章が作られた。また、多国籍軍への授権などの制裁措置も工夫された。
⑪ 国連憲章では、さらに、国際司法裁判所も設定された。
⑫ 国連憲章のもとでは、戦争の禁止ではなく、武力行使が禁止され(第2条4項)、「個別的または集団的自衛の固有の権利」(第51条)を行使する場合に限定された。
⑬ 憲章は、その開始要件を「武力攻撃」が発生した場合に厳しく限定するとともに安保理への報告が必須条件とされ、安保理が措置を取るまでのいわば暫定措置とされた。
⑭ 極東軍事法廷は、「平和に対する罪」を適用したものだが、「侵略」の定義については、国連総会の侵略の定義決議(1974)、侵略の定義条約、ICCの侵略犯罪の規定により定義がすすめられているが、今なお、国際社会が完全な一致点を見出したとは言えない。
⑮ 2度の大戦の経験から、人類が獲得した教訓は、各国の経済的・社会的な協力の推進と人道・人権の保護が平和の最も強固な砦となるということである。

 
意見1 ① 日本は、19世紀から20世紀にかけて、文明化と富国強兵により、西欧列強に伍することに成功した。しかし、1930年代にいたり、国策を誤り、民族自決、ナショナリズムの勃興期に、内では軍部が国政を壟断し、外では中国を侵略した。さらに1940年代には「大東亜」に覇権を求め、勝算もなく、英米との戦争に突入し、国は敗れ、国土は灰燼に帰した。
② 戦後、日本は日米同盟を外交・安全保障の基本に据え、平和国家として生きる道を選択し、世界的にもアジアでも多くの国の発展に協力した。日本が平和国家として日米同盟と国際協調主義により自由で開かれた安定的な国際秩序の発展に貢献することについては、国民的に大きな合意がある。これは、重要な教訓だ。
 
意見2 北岡座長代理のまとめ方について、若干異なる解釈もできる。
① 19世紀と20世紀を機械的に区分して把握するだけで良いのか?
② 日本の過去の捉え方について、日本だけに注目した特殊性を語っているとの印象を受けた。日本だけが特別な軍事的発展主義の道を歩んだという説明だったが、日本の他にも敗戦国はいくつもあり、戦勝国にもバリエーションがある。
③ 以上を考慮に入れた上での議論があればさらに説得力が増したまとめになるのではないかと考える。
① 19世紀、20世紀については厳密なものではない。
② 日本ついて述べている部分が多いのは、諮問事項が、日本はどう行動したかという問いだったから、他につては簡単に書いた。
意見3 ① 私は、中高で歴史を学んだが、近代史は学ばなかった。ために、4、50冊読んで考えた。
② 少数の方かも知れないが、「アジア解放のために戦った」ということもあったと思う。
③ 北岡座長代理の「侵略」という言葉を用いたことが報道されていたが、「侵略」と言う定義は、1974年頃定められ、現在の価値観で「あの戦争は侵略であった」と断定することが良いことか、疑問に思う。
④ そもそも歴史観とは一人ひとりがそれぞれに持つものだ。国家が「歴史観はこうだ」と断定するのは良いのか疑問だ。
⑤ 70年談話を語る場合に、奥脇委員が「侵略の定義は定まっておらず、あいまい」と言っていたので歴史家の間でも異論のあるものをどういう形で盛り込んでいくべきかを考えると、侵略と言う言葉は排除して歴史的な事実関係をもとに誠実な反省をした形の談話を組み立てていくべきではないか。
① アジア解放のために日本はせんそうをしたという点は、公文書上あまり根拠がない。
② 侵略について、総理は、定義はない、と言われたが、大体の定義はある。一応の国際社会の合意はあり、この点を間違えるべきではない。国際法的に強制力のある定義と言う点では難しいが、歴史学者からすれば、侵略と言うのは、武力の行使により典型的には軍隊を送り込み、他国の領土や主権を侵害することだ。明らかな定義が昔から存在している。
③ で、日本はどうしたか。満州事変が自衛ということはありえない。日本が権益を持っていたのは南満州の点と線だけであり、それを超えた権益は何ら持っていなかった。それが、北満州まで手中に収めた。これを自衛と説明できないと理解していたから、傀儡国家を作ったのだ。自主的に現地の住民が作ったなどと当時は説明したが、いまどきそんなことを発言するものはいない。
④ 当時の価値観から見てもこれは侵略だった。満州事変だから、戦争じゃないなど通らない。宣戦布告していないから戦争じゃないというのは屁理屈だ。法的な厳密な実効性のある定義が定まっていないのは、周辺的なグレーゾーンがあるからだ。しかし、満州事変は周辺的な事情ではなく、真ん中の事態だ。相手の領土に軍隊を送り込んで取ってしまったのだ。
⑤ 談話をどうするか、というのは我々のアサインメントではない。我々はどう考えるかを言えばいいだけだ。我々の文書を踏まえて総理がどうするかは、総理にお任せすべきだ。
⑥ 我々の文書では、侵略でなかったと記すことは当時の常識から言ってもあり得ない。
意見4 ① 
法治主義と人権ということに関しては20世紀前半、特に1945年までの日本では十分に重んじられなかった。
② 
奥脇教授の報告において、国際法上「侵略」の定義は定まっていないと明確に発言されていた。私も同意見であり、「侵略」という言葉を使用することは問題性を帯びてしまうということは確認しておきたい
① 
総理が談話を出す以上、日本政府の主張となるのであり、当時の価値観ではなく、現在我々が過去を振り返ってどのように評価するかが問われていると考える。この点から述べれば、やはり過去の日本が中国に対して行ったことは、過去及び現在において国際的に見ても、国際法から見ても、「侵略」と言わざるを得ず、「侵略」という言葉を用いるべきでないかと考える。
② 今まで用いてきた言葉を用いるかどうかという点だけをとらえると、矮小化される議論になってしまう面はあるが、他方、用いないことによって何が起こるか、どのような誤認が生じるか、ということについても考えなければならない。
意見5 ① 侵略と言わない方がいい、との発言があったが、私はやはり言うべきであると考える。
意見6 ① 
今から振り返ってみて侵略であったという発言があったが、その通りである。他方、当時の価値観から見ても侵略であり、当時の価値観でも十分に分析可能である。
① 国際社会において、価値に対する考えは進化(evolve)するものと考える。「侵略」の議論にしても、幣原喜重郎とか西園寺公望たちは排除されて、田中義一が、「我が国は島国的境遇を脱して大陸国家を為すべきである 」つまり 日本は島国 だから満州をとれと。これは法的な意味もさることながら、政治的に見ても「侵略」以外の何ものであろうかと思う。「いや、あのときは日本の資源が色々と制約があったので 戦争は仕方がなかったのだ」というような判断を、今の価値観を持つ我々が主張することにはやはり違和感がある。あの時、とにかく軍部は滅茶苦茶やっていた。
「空に神風、地に肉弾」などと言って、鉄鋼の生産量は20倍、船や飛行機の生産力は5倍という米国に、精神論だけで突っ込んでいった。石原莞爾の「世界戦争終末論」のような根拠のない議論で突っ込んでいく。そこには陸軍のエリート主義と、自己正当化の議論があり、およそ近代国家が遂行する戦争の体を為していない格好で突っ込んでいった。

そういうものを作り出した硬直的体制が現在も残っていないかどうか、そうした点にも関心がある。

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